社会主義=独裁?「正しい」社会主義はベトナムに!    どん底からの試み、世界から評価されるドイモイ政策
ホーム>10分で分かる!投資する前に知っておきたいベトナムの歴史

当サイトは情報提供が目的であり一部主観及び意見が含まれている場合があります。当サイトの情報に基づいて被ったいかなる
損害についても一切の責任を負いかねます。投資判断は他の資料なども参考にしてご自身でなされるようにお願いします。
当サイトの内容の無断転載・使用は禁止いたしております。/Copyright (c) ベトナム株の掟 2005 All rights reserved

 ベトナムの苦労・・・1000年にわたる中国の支配
歴史上にベトナムの名前が登場するのは、紀元前214年頃からです。
中国最初の統一王朝と言われる秦の始皇帝が、中国南部の嶺南地区を平定した際に、
ベトナム周辺の当地を任じられた「趙陀(チョウ・ダ)」が独立して「南越(ベトナム)国」を建国し、
自ら「南越部王」と名乗ったとあります。
この「南越国」は、やがて中国に攻め滅ぼされてしまいます。
その後、幾度となく、ベトナムの独立王朝が成立しては中国に滅ぼされています。
つまり、ベトナムの時代の王朝は、独立はしていても、常に中国の脅威にさらされていました。

 今度はフランスの植民地に!
しかし、19世紀に入るとフランスの介入という新たな展開が生じます。
中国とのベトナムをかけた争いにも勝ったフランスは、
ベトナム全土とカンボジアをあわせた仏領インドシナ連邦(仏印)を誕生させ、
ここからベトナムでは100年に及ぶ植民地の歴史が始まります。
そして、20世紀に入ると日本軍が進駐し、日本の傀儡政権である越南帝国が起こります。
1945年8月に第2次世界大戦で日本が降伏すると、フランスがベトナムの再植民地化を図ります。
しかし、ベトナム独立同盟(ベトミン)が全土で蜂起。
9月には、ベトナム建国の父と言われるホー・チ・ミンが、
ハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の建国を宣言しています。

 北と南に分かれたけど、ベトコンが勝利して、めでたく南北統一
ところが、フランスはこれを認めず、ベトミンとの戦争(インドシナ戦争)を起こします。
その後、両者は和解し、北緯17度線で国土が分断されました。
北緯17度線より北がベトナムの北ベトナム、
南がフランス・米国の傀儡国家であるベトナム国(南ベトナム)となったわけです。
その後、世界は冷戦時代に突入し、社会主義諸国が北ベトナムを支援するいっぽうで、
資本主義諸国が南ベトナムを支援。
60年には南ベトナムの圧制に反対した人々が、南ベトナムの解放とベトナム民族の統一を目的として、
反アメリカ・反帝国主義を標榜とする組織、
南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成し、南ベトナムが内戦状態に。
そして、このベトコンを北ベトナムが、南ベトナムを米国が支援する形でベトナム戦争に突入します。
最終的には、ベトコンが南ベトナムを攻略して、1976年に南北ベトナムが統一され、
ようやく現在のベトナム社会主義共和国が誕生しています。

 南ベトナムの人々から反発、なかなか上手くいかないものです
新しい政治体制が発足したものの、比較的自由だった資本主義経済になじんでいた
南ベトナムの人々の間には混乱や反発が起こり、政権への服従を拒んだ人々は、
処刑されたり強制収容所送りになったりしました。
アメリカや香港、タイヤ日本などへ逃げ出す難民も大量に発生しました。
逃げ出す際に、漁船などの小舟に乗って逃げ出したことから、
これらの難民はポートピープルと呼ばれています。

 カンボジアのポル・ポト政権、自由に生きることができない時代
その後、同じ社会主義を標榜する中国とソ連の対立が激しくなると、
ベトナム社会主義共和国はソ連への依存を深めていきました。
折しも隣国のカンボジアには、中国寄りのポルポト政権がありました。

このポル・ポト政権が目指したものは、あらゆる生産手段を共有し、
生産物を社会全体で平等に分け与える原始共産制でした。
原始共産制では、学校や病院はもちろん、貨幣も必要ないとされ、完全な自給自足を良しとします。
完全な自給自足ですから、都市など必要なく、政府の高官以外は首都のプノンペンを追われて、
地方で荒れ果てた土地を耕す肉体労働を強要されました。
おまけに、子どもは親から隔離されて労働所で働かされ、結婚相手も国家が決めるのです。
この原始共産制は、親中派だったポル・ポト政権が
中国の文化大革命を手本にして行ったものだと言われています。
そして、原始共産制に疑問を持ったり、都市を離れることを拒んだ人は、ことごとく処刑されました。
いわゆるカンボジアの大虐殺です。

 ベトナムがカンボジアを救うために、中国と戦う!中越戦争
首相のポル・ポトにそむいて追放されたヘン・サムリン将軍のグループは、
ベトナムに身を寄せて政権奪還を目指しました。
1978年、ベトナム軍はヘン・サムリン将軍をリーダーとする「カンプチア救国民族解放戦線」を支援し、
カンボジアに侵攻します。
すると、79年2月17日、ポル・ポト政権の後ろ盾でもある中国が「懲罰行為」としてベトナム北部に侵攻。
中越戦争が始まりました。
中国はベトナム領内の占領都市を爆破したのち、3月18日に撤退を完了、
中越戦争は1ヶ月で終結しています。
とはいえ、その後も中国とベトナムとの間では、紛争が起きています。

 経済が苦しくなってきた・・・
ベトナムは、ヘン・サムリン体制を保護するため、中越戦争の終結後もカンボジア駐留を続けました。
また、1980年6月には、ラオスとタイの国境紛争に介入し、タイに侵攻しています。
しかし、国際的な影響力強化のための隣国への軍事的関与は、
逆にベトナムを国際的に孤立させ、経済的困難を招きました。
その状況を打開し、今日の経済的な成長のきっかけとなったのが、
1986年12月のドイモイ(刷新)開始です。
ホーム
インドシナ戦争(Wikiより)
第一次インドシナ戦争
1946年〜1954年にかけて、ベトナム民主共和国の独立にともない、フランスと北ベトナムとの間で行われた戦争。通常、インドシナ戦争といえば、これを指します。

第二次インドシナ戦争
1960年〜1975年にかけて、ベトナムの独立と南北統一をめぐって戦われた戦争。
一般的には、ベトナム戦争と言われています。

第三次インドシナ戦争
1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争、1979年のカンボジア内戦中越戦争を指します。
10分で分かる!投資する前に知っておきたいベトナムの歴史

【 ベトナム株の掟 】 〜新興国投資に挑戦しよう!〜